その後、すぐ生徒全員下校となった。
帰り際、中庭前の並木を潰しているフェンスの端が見えた。背の高い屋上のフェンスの上の方。もっと中庭に近い方、私がたまに弁当を広げるところに……
見たくない、考えたくない、関わりたくない。
背を向け、帰ろうとした。振り返った目の前には春日井が立っていた。
「佐伯さん、高島さんね、」
「うるさい。」
「あの、」
「うるさい。」
「や、私まだ何も、」
「うるさい。」
無視するように早足で行く。後から追ってくる。
「うるさい、私は帰るんだ。ついてくるな。」
海に近づくとあの崖が見えるのが嫌で、私は海を見ないようにぐるりと遠回りして家に帰った。
× × ×
知ってる人もいると思いますが、昨日、このクラスの高島沙織さんが屋上から落ちて亡くなりました。屋上のフェンスをとめているネジが一部外れたために危ないと言ったにも関わらず屋上に行ったということです。こんなことは二度とあってはいけません。このことについて何か知っている人がいたら先生に言うようにしてください。
そしてもう一つ悲しいお知らせがあります。先週行方不明だと伝えた春日井千佳子さんが死体で発見されました。
この後体育館で全校集会があります。皆さん速やかに移動してください。
× × ×
教師が話している間中、机に突っ伏して大泣きしている仁科と、机を見つめ動かない水谷がいた。
体育館への移動は、クラスの中でも一番後ろを行く。この一週間で癖にしたことだ。さらに後ろから春日井がついてくる。
「あの、大丈夫だよ。佐伯さんが屋上に行ったところも帰ってきたところも誰も見てないから。」
重い足取りで進む私を励ますような言い方だった。
「あ、私の体、浜に流れ着いたんだって。私の知らない間だったんだけど、でも、見なくて良かったかな。」
「うるさい。」
私が一言言うと春日井は黙った。
小さい歩幅で体育館へ向かう。
× × ×
体育館で校長の話と、一分間の黙祷があった。集会の後すぐに全員下校となった。明日は保護者への説明会だから休みらしい。
昨日と同じようにわざと遠回りして帰る。
家の前には春日井が立っていた。
「あの、ごめんね。えっと、家は昨日後からついていったから知ってるんだけど、えっと……」
私はそこに突っ立って春日井を見つめるだけだった。春日井が視線をそらした。私もそれを追う。視線の先にあった電信柱の影から高島沙織が顔を覗かせた。後ろのブロック塀が透けて見える。
「……どうも。」
高島は片手をあげると、それだけつぶやくように言った。
心臓が徐々に速度を増す。息が詰まったようになる。
「……とりあえずあがりなよ。今の時間は誰もいないから。」
左手の我が家を示す。
道端で醜態をさらすのは嫌だった。
胸を押さえ、普段持ち歩いている合鍵で扉を開ける。二人とも中に入ってから扉を閉める。二階の自室へ行った。
× × ×
「あの、こちらが沙織ちゃん……って知ってるよね。えっと……」
私は顔を上げない。高島も同じようにカーペットを見つめているだけ。春日井だけが顔を上げて懸命に現状を打破する言葉を捜していた。
「沙織ちゃんとは昨日会ったんだけど……あ、最初になんて言ったと思う?」
私は顔をそっと上げた。高島も顔を上げていた。その顔は真っ赤に染まっている。春日井も同じように頬を染めて言ったのだった。
「あのね、『ごめんなさい』って……」
まるで恋人に言われた愛の言葉を惚気るように。
「私がごめんなさいなのにね。」
言い終えないうちに、春日井の目にうっすら涙が浮かんだ。高島が「恥ずかしいだろ」と春日井の袖をつかむ。こちらの目にもうっすらと涙。
二人で他愛のない言い合いが始まる。それは徐々にただの世間話に落ち着いていった。
うらやましくなった。
「あ、それでね。」
春日井がもう涙の引いた明るい顔で話を切り出した。
「私達明日告別式なの。佐伯さん来てね。」
「こくべつしき……」
「うん。」
鸚鵡返しのセリフに春日井は嬉しそうに頷いた。
「千佳子と一緒に、ちゃんと成仏するんだ。」
高島が甘ったるい声で言った。
「空に、ちゃんと明るい方が見えんだ。みんなが、祈ってくれたらあたし達ちゃんと成仏できるんだよ。」
「だから、佐伯さんも来てね。」
春日井が笑顔で、高島も笑顔で。二人の手はしっかりとつながれていた。
あ、そうだ。
「ちょっと待ってて。」
鏡台の一番上の引き出しから黒い太目の髪留めゴムを出す。量が多い黒髪を一つにまとめるにはある程度太くて強さがなければダメだった。私が髪の長い頃使っていた髪留めゴム。
「動かないでね。」
そう春日井に言う。ゴムを手首に通し、眼鏡が隠れるほど長い前髪をかきあげるように手を伸ばした。手ごたえなくするりと春日井の頭をすり抜ける。
「そっか……」
困ったような目で春日井は私を見上げた。それに軽く微笑みを返し、部屋の中をぐるりと見渡す。
机の上の小さなお菓子の缶をひっくり返す。小さくなってしまった消しゴムやクリップが机の上にばら撒かれる。その中にゴムを入れる。机の一番上の引き出しからマッチを取り出す。小学生の頃心惹かれ、理科室からこっそり持ち帰ったものだ。マッチ棒の赤い頭を箱にすりつけ火をつける。それをそのまま缶に放り込んだ。表面を包み込む伸縮性のある黒い糸の部分が焼け、朽ちる。中のゴムはゆっくりと融けた。
窓を開け、出窓部分に缶を置く。
原型がわからなくなったところで火を吹き消した。ほんのりと熱い缶を春日井へ差し出す。春日井はそこに手をいれ、春日井自身と同じように半透明の髪留めゴムを取り出した。
「それで前髪結んでみな。」
缶を机の上に置いて、春日井の真正面に座った。
春日井は髪留めゴムを持て余している。
「私、ずっと髪長かったけど結ぶのは初めて……」
前髪をかきあげ、それらを無造作にまとめ、結ぶ。髪は緩んでいるところがほとんどだったし、うまくまとまらず落ちてきている髪の毛もあった。結んだ髪は天を向いている。傍から見ればそれはとても変な格好だった。
でも、前がしっかりと見える。
「餞別。きっちり顔出していきなよ。」
春日井はまた頬を赤く染めて頷いた。こっちもつられて顔の火照りを感じる。
張り詰めていた感じがなくなった。
三人で話をした。何気ない世間話。でもすごく楽しい時間で、私はこんな時間を過ごせることがとても嬉しかった。
「ねぇ、千佳子。」
ちょうど話のキリがいい時、高島は春日井の袖を引っぱった。
「あ。そうだね、沙織。」
少し改まって、春日井が言った。
「今日、身内だけのお通夜があるから、そろそろ行かなきゃ。」
すくっと二人が立ち上がった。
私は玄関まで二人を送っていった。
二人は最初と同じように今も手をつないでいる。
「死んじゃってからの付き合いだったけれど、ありがとうね。」
春日井が笑顔を見せる。生前の暗さも、ちょっと前までの嫌らしさもない。素直な笑顔。
「また明日ね、あきらちゃん。」
「あきら、明日絶対来んだぞ。」
二人それぞれが言う。私は嬉しくて、自然に浮かんだ、きっと今まで見せたことのない笑顔を返した。
「絶対行くから。また明日ね。千佳子、沙織。」
二人手をつないで、道を行く。時々振り返りながら。私は見えなくなるまで大きく手を振った。
× × ×
自室に駆け戻り、部屋着に着替える。和室にアイロン台を出し、そこにセーラー服を寝かせる。コンセントにつないだアイロンは、温まったよ、とアラームで知らせた。しゅーと蒸気を吹くアイロンをまずセーラーの襟に当てる。
ちゃんとしてないと二人に笑われちゃうよね。
制服のしわが伸びてしゃんとなっていくのと一緒に、私自身もしゃんとなっていく。