五限が終わり、十分間の休憩時間。春日井は三人の方へ近づいていった。私の席からよく見える。高島は怯えたような顔をし、後の二人はそれを見て不思議そうな顔をした。
「高島さん、私のこと見えるんだ……」
春日井は静かに言った。高島の甘ったるい声は怯えから甲高くなる。
「だから何だよ、何だってんだよ……」
「うぅん、なんでもない……」
春日井が席に戻ってくる。高島は引きつった顔で二人に問いかけた。
「美緒、ルカさん、二人は見えねーんすかっ?」
「沙織、アンタ何言ってんの?」
高島の顔が暗くなった。
× × ×
教室に一人残った私は、窓の鍵を確認し、カーテンを閉めた。鞄を持って教室を出、電気を消す。
人はほとんどいない廊下に足音が一人分響いた。階段に向かって高島が早足で目の前を通り過ぎる。その後ろから春日井が同じ調子で追う。
「……ねぇ、どうして逃げるの?」
「うるせー、よるな、よるんじゃねーっ!」
高島がさらに歩調を速めると、それにあわせて春日井も追う速度を上げた。
高島が一瞬春日井の方を振り返ると、春日井は一瞬立ち止まった。
すぐにまた二人とも早足で歩き出す。
ここからでは遠くて二人の表情は見えない。
私も帰るために昇降口へ向かう。
下駄箱に、私のローファーはなかった。
× × ×
翌日。私の鞄の中には少しきつい中学時代のローファー。なくなって困るものは持ち歩く。二つの席には相変わらず花瓶があった。春日井は既に席についている。
「花瓶、どけないの?」
片手に自分の机にあった花瓶を持ち、春日井に聞いた。
「私、触れるけど持ち上げられないの。」
「じゃあ私が片しておく。」
一つを教室後ろのロッカーの上へ。春日井の席まで戻ってきてもう一つの花瓶を持ち、黒板横の机へ。そこに溜まっている三人を横目で見る。高島がひどく怯えた目で私を見た。春日井の方を見ると、そんな高島を見て静かに笑っているようだった。
私が席につくと、聞いてもいないのに春日井がしゃべりだした。
「昨日帰り、高島さんが一人になったときに会って少し話をしただけなの。」
机の中に、刃が出しっぱなしのカッターナイフが入っていた。
「ほんとにそれだけなんだよ。」
カッターナイフがクラスのものだということがわかると元の場所に戻した。
「聞いてる?」
「聞いてるよ。」
私が知っている、うつむいていて、声の小さい、人が苦手な、ひっこみじあんの子は、いつの間にか明るく、変な笑い方をするようになっていた。
一時間目、実験室へと移動。私はクラスで一番最後、正確には春日井がいるから最後から二番目を歩いていた。春日井は教室にいる。きっと授業が始まる頃には来ると思うが。私のすぐ前はあの三人が廊下いっぱいに並んで歩いている。
高島が、教室に忘れものをしたと行って廊下を逆走した。教室は後ろの角を曲がったすぐのところだ。二人は立ち止まって待っている。私が二人に追いつき抜かしそうな頃だった。
今にも泣きそうな顔で、高島は廊下を走っていった。後ろからゆっくりと春日井がついてきている。
「あんた、何したの……?」
「別に何も?」
生前は見たこともない、変な笑顔を浮かべていた。
× × ×
授業が終わると急いで教室へ戻る。あいつらより先に戻らないと何がなくなるかわからないから……。
徐々に教室に人が戻ってくる。
水谷と仁科が戻ってきたけれど、高島だけ戻ってこない。
次の授業のチャイムが鳴ろうかというときに、春日井が戻ってきた。
「……高島は?」
隣の席に座った春日井に小声で聞く。
「高島さんって口調からは想像できないけど意外とマメなんだよ。授業が終わった後、準備室の棚をきっちり整理してた。」
「何か話してたんじゃないの?」
「んー……強いて言うなら思い出話? 高島さんと一緒に準備室入って、高島さんはずっと棚の整理。私はドアのところに立ってた。ドア閉まっちゃったから私一人じゃ出られなかったしね。」
春日井は軽い調子で言った。前みたいに段々声が小さくなったりどもったりしない。
小さな閉鎖空間。出入り口にはアイツがいるから近寄れない。棚だけを見つめる。少し右に視線をずらせば人体模型。少し左にそらせばホルマリン漬け。怨みつらみ聞かされ………
どんなに怖かったことだろう。
高島が目を真っ赤に腫らして教室に戻ってきたのは四時間目が始まる頃だった。
× × ×
「あんたってさ、」
いつものように話しかける。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
「なに?」
「成仏、とかしないの?」
生前はかかわりあうことはなかったのに。
五日……といっても実質休みを挟んだので三日だが、一緒に行動すれば仲もよくなるということか。授業を一緒に受け、昼食を一緒に食べる。登校と下校は別だったが……想像つく。
「やることがあるから多分しないんだと思う。」
窓際黒板側の高島に、春日井は笑いかけた。高島は目の下にくっきりとクマのついた怯えた顔でこちらを見る。いつも一緒にいる水谷と仁科の袖をしっかりとつかんでいる。四日前からそうだ。
机の上の花瓶、掃除ロッカーにある靴、机の中の刃が出たカッターナイフ、少し教室から出た隙になくなる筆記具。始まってからもう一週間ぐらいか。だんだん頻度が増していく。そして徐々に慣れていく自分がいる。
「あのね、すごくいい気分なの。」
変な笑顔が定着してしまった春日井。
「……ちょっと趣味悪いよ。」
「え、なに?」
私がささやいたのは春日井の耳には届かなかったみたいだ。
× × ×
教師が教室に入ってきた。
高島が自分の席に戻る際、私の横を通り、小さな紙片を机においていった。綺麗に折りたたまれたそれを広げると
『今日の昼休み、屋上へ来いよ。ぜってーだぞ!』
少し丸っこい雑な字と、その独特の言葉遣いの悪さで高島本人が書いたものだとわかる。
「それなに?」
春日井が覗き込んできたのであわてて隠した。
「なんでもない。」
隠したメモを春日井に見えないようにじっと見つめる。
昼休みに屋上。
教師の言葉は私の耳には入らず前から後ろへ流れていくだけだった。
× × ×
屋上へ続く階段は、教室を出て特別教室をいくつか通りすぎた校舎のはじにある。基本的に出入り禁止だが、鍵が壊れてしまらないこともあり、昼休み弁当を持って出入りする生徒がいる。とは言っても今の寒い時期に行く生徒はいないだろう。
掃除が行き届いていない汚い階段を上る。
扉には、『立ち入り禁止』と赤いマーカーで書かれた紙が貼ってあった。真新しい。以前あったものは真っ黄色に古びていたから、生徒が出入りするのをよく思わない教師が変えたのだろう。そんな張り紙を無視して扉を開ける。
冷たい風が中へと吹きつけた。
風になびく長い黒髪は、もうない。
屋上に出て左手フェンス際に高島は座り込んでいた。
「……ちゃんと来たな。」
私の姿を見止めると立ち上がった。私は高島にゆっくりと近づく。
「何の用? ……アンタも先週の水谷みたいになりたいのか? 後から水谷と仁科も来るんだろ。」
身長の高い私は圧迫するように高島を見下した。が、負けじと睨み返してくる。
「てめーこそ何なんだよ。アイツとこそこそ話したりして何のつもりだってんだよ。」
「アイツ……」
「とぼけんじゃねぇっ、春日井千佳子のことだよ。しかえしかなんかのつもりかよ!」
「ふざけるなよ……」
低い静かなつぶやきに、高島の表情が変わった。
「ふざけるなよ。つるんでなきゃ何もできないアンタ達といっしょにするんじゃねーよ。」
高島の胸倉をつかむ。制服のスカーフが緩み、改めてセーラーの襟元をつかみなおす。もともとフェンス際に立っていたのを、フェンスに押し付ける。高島の背中がフェンスにぶつかりがちゃんと音がした。
高島の、マスカラがついたばさばさのまつげが上下に揺れる。怯えて目で私を見る。春日井を見るのと同じ目で。
違う。私とアイツは違う。
さらに手に力を込める。高島の顔がこわばった。
がちゃんともう一度大きな音がして、その一角のフェンスが斜めに倒れていった。そこに押し付けていた高島の体も斜めに、屋上から落ちようとする。
私は自然に手を離した。
フェンスは中庭を押し潰すように屋上から離れた。その後を追うように高島も落ちていく。
悲鳴が耳に残る。
校舎と屋上をつなぐ扉を開ける音がする。あわててそちらを振り返った。肩が上下する。心臓が激しく脈打ち、体全体が揺らされるようだった。
扉の隙間から春日井が顔を出した。
「佐伯さんどうしてこんなとこにいるの? 屋上に絶対に入らないように、って先生言ってたでしょ?」
私は扉までのわずかな距離を全速力で走り、春日井を押しのけ校舎へ入り、乱暴に扉を閉めた。階段を駆け下り特別教室を通り過ぎ、教室に近いトイレに駆け込んだ。個室に閉じこもる。
壁に手をつき、大きく息を吐いた。心臓が激しく脈打つ。体全体が揺らされる。
昼休みが終わる頃、まだ暴れる心臓を押さえ、教室に戻った。