配られた不揃いの紙を机で平らに整える。私は、窓辺の赤いチューリップの鉢を見つめてため息をついた。
木曜六時間目は学活。いつも特にやることはなく、無駄な時間としか思えない。小学校ならここで先生に言えばドッヂボールとかやらせてもらえるんだろうけど、中学校ではそうはいかないらしい。中学二年生にもなってドッヂボールもどうかと思うけど。
今日の学活は『自分を知る』というテーマの特別授業だ。配られたのはB4のわら半紙一枚。縦に六つ横に六つ、クラスの人数と同じ三十六に分かれるよう線が引いてある。そして、その一つ一つの中にクラスメイトの名前がそれぞれ書かれていた。この枠の中に、クラスメイトの良いところ悪いところを書く。そして、枠線に沿って一つずつばらばらに切り離した後提出。それが各人に配られ、それを見て友達から見た自分を発見し、自分への理解を深める、というご大層な内容の特別授業だ。これのポイントは匿名性だということと、指摘するのは良いところだけじゃなく悪いところも、ということだ。要するに、これは公式に認められた悪口大会だ。
現に、今手元にある『藤村美樹』と書かれた紙片は、『ネクラ』だとか『植物オタク』と書かれた物ばかりだ。私の名前が書いてあるからには確かに私宛。鉛筆で乱暴に書かれたものや、ボールペンで描かれた右上がりの文字。まだ半分ぐらいしか見てないけど、長所『植物好き』、短所『暗い』と綺麗にまとまりそうだ。こんなもの、自分を知ることの何の役にも立たない。という私も、全ての欄に『明るい』と書いただけだけど。
どれを見ても同じことしか書いてない紙の山に嫌気が差したころ。一枚、何も書いてない紙を見つけた。裏からピンクの太いサインペンの文字が透けて見える。授業の趣旨に反している。なんでもいいから書かなければいけないのに。でも、目を凝らすとうっすらと見えた。緑のペンで薄く、でも力強く書かれた文字。
『森を返せ!』
「……へ?」
不意討ちのその攻撃に思わず声が出る。周りの人がこっちを振り向いて、私は何もなかったフリをした。
明らかに異質なそれは、微かに草の香りがした。
窓辺の真っ赤なチューリップにじょうろで水をあげる。長くにょきっと伸びた茎は首をかしげるように少し曲がっていて、花はふんわり咲いている。花弁が伸びをしてるみたいだ。私もチューリップと同じように首をかしげた。
人の居ない教室が好きだ。放課後はみんな部活に行く。だから、帰宅部の私だけが教室に残っている。帰宅部は他にもいるだろうけど、名前の通りさっさと帰るんだろう。
このチューリップの世話をしてるのは、クラスで私一人だけ。他の人は全く見向きもしない。
だからこそ、一人、正しくは私とこのチューリップの二人きりだとほっとする。
すぐそばにおいてあるカバンから、藁わら半紙が覗いている。はぁ、とため息をついた。
「なんかやだなぁ。どうしよう……。」
窓辺のチューリップに話しかける。窓際に設置された棚の上の鉢。安っぽい白いプラスチック製の鉢と、ひびの入った水受け皿。この棚には本が立ててあるから実は結構危ないのかもしれない。
『そうですわね。どうしましょう。』
「え?」
凛とした声が私の独り言に応えた。教室に人は居ない。その声はさらに続ける。
『やはり森を返しませんと。』
その声は私が見つめているチューリップから聞こえてくる気がした。
花がしゃべる?まさかそんな。
じっと見つめている花の中が、なんだか光ってる気がした。太陽の光とは違う。もっと淡くて優しい……
『ちょっと、聞こえてませんの?』
少し怒鳴り気味の声になった。よく見ると淡い光の中心に何かいるようだ。小さい手のひらサイズの人……『妖精』という言葉が一番しっくりくる。チューリップのつぼみのような頭。そのてっぺんからは触覚のようにおしべ、めしべと思われる物が出ている。首は、大抵の花には付いている“がく”みたいで、別の見方をすればピエロの襟に似てる。そしてスズランが思いきり開ききってしまったようなスカートをはいている。背中には蝶を思わせる羽が付いていて、でも、柄はなく透き通っている。眼は大きくて猫みたいだ。小さな口を尖らせているのは不機嫌の表れだと思う。
「え、何、妖精……?森?」
『まぁ、聞こえていたのならきちんと返事して欲しいですわ。』
「え、ごめんなさい。」
妖精は大きく目を見開いて私を睨む。
『森を返して欲しいんですの。アナタなら、ミキならできるでしょう?』
ちょっと待って、何で私の名前知ってるの?森を返せとかさっきから言ってるけど……。私が森を丸ごと盗んだとでもいうわけ?
『言いたいことがあるならちゃんと口に出して言わないとわかりませんわ。』
その小さい妖精(?)は大きく目を見開いて私を睨む。その大きな、見透かされているような瞳に少しひるんだ。
「えっと、森って……大体アンタは何?」
『わたくしは花の精ですわ。大事にされた花は居心地が良いのでこのチューリップに住ませて貰っていますの。』
“大事”。このチューリップは大事にされているらしい。嬉しい!私が毎日愛と、ほんの少しの愚痴を注ぎながら水をあげていたのはちっとも無駄じゃなかったんだ。きっと喜んでくれてたんだろう。
『ミキ、涙を浮かべて笑っててもわかりませんわ。言いたいことがあるならちゃんと言って欲しいですわ。』
「嬉しいの、チューリップにお礼を言われたみたいで……。」
『えぇ、この子が言っていましたわよ。いつも水をくれて感謝してるそうですわ。』
「花とお話できるの?」
『えぇ、もちろんですわ。あ、ミキったら、植物は喋らないと思っていましたの?バカにしないで欲しいですわ。』
「そんなことないって。……じゃあ私の名前も?」
『えぇ、この子に聞きましたわ。“藤村美樹”でしょう?ちゃんと知ってますのよ。』
妖精に出会う、という初めての経験。そして花と会話できる事実。私の心は躍るようだった。
そのとき、がらがらがらっとドアの開く音がした。ジャージを来た女子が二人、教室に入ってきて、机を物色する。そのうちの一人が私の方を見た。
「あれ、藤村さんいたんだ。部活は?園芸部だったっけ?」
声におかしな抑揚をつけながら意地悪そうに聞いてくる。
うちの学校に園芸部はない。
彼女は窓辺のチューリップを見て鼻で笑った。
机を物色していた方の子が顔を上げ、もう一人に声をかける。そして、私なんか元から居なかったように教室から出て行った。ドアは開けっぱなしだ。こつ、こつ、と足音と、話し声が響く。
「ねぇ、私ら入る前アイツなんかぶつぶつ言ってなかったぁ?」
「え、植物と会話とかー?前テレビで見たの、なんか観葉植物に向かって『ほら、話しかけるとポトスちゃんが喜ぶんですよ』とか言ってるババア。キモっ」
「ハナリンガル、みたいなぁっ?」
「あ、そうそう。そういえばさ、今日のアレさ、アイツになんて書いた?」
「もちろん『ネクラ』に決まってんじゃん!」
後はバカみたいな笑い声だけがひたすら響いた。
下唇を噛み締めている私を妖精が心配そうに下から覗き込む。私が顔を緩めると、妖精もつられたように笑った。
「で、森って?」
じょうろを棚に戻し、チューリップに向かって話しかけるようにする。
『わたくしも存じませんわ。この子も友達から聞いたそうですし。』
「友達?」
この教室に植物らしい植物はこのチューリップの鉢ひとつだけだ。
このチューリップはひとりぼっちだ。
『この学校に来たときは一人ではなかったのですよね?その友達だそうですわ。離れていても小さいとき一緒だったからわかると言ってますわ。』
「学校に来たときの……昇降口そばの花壇に植えた子たちだ!」
反射的にカバンを手に取り教室から走り出していた。何でこんなにも真剣なのか自分でもわからない。
学校から出たすぐの花壇には、赤白黄色、チューリップが整列している。ここに植えたとき、何故だか一本余ってしまった。それが今教室で私が世話してるやつだ。私は膝をつけて、花と視線を合わすようにした。
「ねぇ……誰に森を奪われたの?」
チューリップは風に煽られ揺れるだけだ。妖精が遅れて昇降口からぱたぱたと飛んできた。妖精は花を見つめると、会話しているようにふんふん、と頷いたりした。チューリップも頷いているように見える気がする。
『ミキ、この子達も他から聞いたらしいですわ。ほら、そのクローバー。』
花壇の隅のほうにクローバーもいっしょにいる。それは花壇の外でも、コンクリートのすきまからひょこひょこ顔を出していた。小さく密集した三つ葉の中から、時々ひょろりと白い花が立っている。妖精の、正しくはクローバーの言う通りに、クローバーからクローバーへ辿っていく。
聞くと、クローバーも結局他の花から聞いたらしい。なんでこんな伝言ゲームをしてるんだか。案外、始めまでたどり着くと『森を返せ』じゃないのかもしれない。
妖精をつれて、私は走る。
体育館裏で、クローバーはドクダミに聞いたと言った。そのドクダミは、学校の隣の民家のパンジーに聞いたと言った。パンジーは、スズランに。スズランはバラ。バラはマーガレット。空き地のオオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、そして花屋のカーネーション。
カーネーションはそばの川原のハルジオンに聞いたらしい、と妖精が言った。花屋へ向かうトラックの中から小さな声を聞いたと言う。
草だらけの川原に下りると、ハルジオンがいっぱい咲いていた。ひょろりと伸びた茎に黄色い、丸いのが付いていて、そこから羽毛のように細かく、白のようなピンクのような花びらが生えている。
ここまで来て、少し騒音が気になった。学校の方と川を挟んで反対側すぐにある森林公園からする。工事してるみたいだ。
木々に覆われた、ある種、山のような森林公園を見つめていると、妖精にスカートをくいっと引っ張られた。
『ミキ、この子達泣きそうですの!大変ですわ!』
ハルジオンを守るように包み込む妖精は、しゃべってる本人の方が泣きそうだった。私はしゃがみ、落ち着いて話して、となだめる。
『そこの、山で、クヌギ達が……』