いってらっしゃい。
沈み気味のカリンの声と、遠慮がちなサラの声は、心にチクリと刺さった。

おかえりなさい。
落ち着いたサラの声だけだった。

家の裏の丘へ行く。たった一日行ってないだけなのに、ずいぶんと久しぶりのように思える。
やわらかい風が吹いた。足下の黄土色の砂がぱらぱらと流れる。ほんのりとあたたかい。冬には吹かない風だ。春が近いのかもしれない。
丘の上には誰もいない。夕日が丘に刺さっているように見えた。
丘の上からは夕日が丸ごと見えた。今地平線に足をつけ、徐々に沈みこもうとしている。
丘のふもとの地面の裂け目にカリンはすっぽりと入っていた。オレンジとグレーの混ざり合った薄暗い空を眺めている。
「ただいま。」
イツキは妹に向かって手を伸ばした。カリンは兄の手をとり浅い裂け目から出る。
「おかえりなさい。」
妹の細い体に自分のコートをかけてやる。
影が長く、丘のてっぺんまで伸びている。二人で手をつないで帰った。

以前のカリンに戻ってしまった。サラと出会う前のカリンに。

「ただいまっ。」
サラに見せたカリンの笑顔は、寂しそうだった。

あれからカリンはサラに触れようとしない。
ぽかぽかと暖かくなり始めた。
人々はストーブをしまいこむようになった。
三人のギクシャクした仲は、時間によって解決されようとしているように見える。
しているように見えるだけ。

「春、なんですね。」
サラが窓の外を眺めて言った。
空が青く澄んでいる。雲が緩やかに流れていく。空気が暖かく、サラはピンク色の髪をひとつに束ねていた。
「ねぇ、サラさん。ちょっと来て。」
背後からカリンの声がする。カリンは、食器棚の前でぴょこぴょこと飛び跳ねていた。
「棚の上のお鍋を取って欲しいの。お兄ちゃんあんな高いところに置くんだもん。」
サラは、背伸びをし、手を伸ばした。目的の鍋に指先が触れる。
その刹那、目の前が白くなった。
鍋を棚の上から下ろすと、カリンに手渡した。ベッドのほうまでよろよろと歩いていく。イツキのベッドのふちに座ると、体中の力が抜け、そのまま倒れこんだ。視界が揺れていた。
カリンは、刻んであった野菜を今取ってもらった鍋に入れた。水も加え蓋をし、火にかける。
サラはゆっくりと頭を起こした。揺れていた景色がゆっくりと元に戻る。台所からカリンがこちらに向かってきていた。カリンは隣にある自分のベッドに腰掛けた。
「ねぇ、サラさん。髪の毛触っちゃ…ダメだよね。」
サラは後ろで束ねていた長い髪を前へ持ってきた。赤い色素は抜け、今はピンク色だ。
「イツキ君にダメと言われてるでしょう?」
やさしい口調で諭すように言う。
「だって、サラさんの髪ほんとにきれいなんだもん。私の髪はほら、こんなだから……」
バンダナのすそから出ている髪の毛をカリンは指でそっといじった。バンダナがずれたのをサラが直そうとして手を出しかけ、ひっこめた。
「でも私の髪もそのうちカリンちゃんみたいに白くなっちゃうのよ。」
サラは束ねていた髪をほどき、頭を軽く左右にゆすった。カリンはサラの方に向き直った。サラを見つめる瞳はかすかにうるんでいる。
「どうして?もったいないよ……」
「どうしても。」
小さい子供に言い聞かせるように静かに言った。
カリンはベッドから立ち上がった。わかってくれたか、とサラはほっとした。しかし、カリンはサラのすぐ隣に座り、その髪の毛を触りだした。
「カリンちゃん!イツキくんに言われたでしょう?」
「サラさんの髪ふわふわだね……ありがとう。」
自分の腕に絡まるピンク色の髪の毛を丁寧に払うと、カリンは立ち上がってサラにお辞儀した。そして、真っ赤になった手の人差し指だけピンと立て、口に当てた。
「お兄ちゃんには内緒ね。」
カリンは台所へ行って火を消してくると、再びサラの方へ戻ってきた。サラの座っている隣、自分のベッドに腰掛ける。
「ねぇ、サラさんはウチに来る前はどうしていたの?」
サラは答えようとしなかったが、カリンは続けた。
「サラさんは町を知ってる?どんなところか知ってる?どんな人がいるか知ってる?……私は知らない。」
カリンは床を見つめた。
「私の世界はこの家と丘だけで、お兄ちゃんしかいなかったの。でもね、」
ベッドの上に完全に上り、サラを見つめた。
「サラさんに会えた。今、サラさんの髪に触ってみたけど意外と大丈夫だった。」
真っ赤になった自分の両手を見つめる。少し、ひりひりと痛む。
「私、町に行ってみたい。お兄ちゃんがお仕事してるところ、買い物してるところ、どんなところか知りたい。」
「カリンちゃんが行ったら危ないから、イツキ君はダメ、って言ってるのよ?」
「でも大丈夫かもしれないでしょ?」
カリンはにっこりと笑って、真っ赤な両手をサラに見せた。

陽が傾いてきた。夕日が窓から差し込む。サラは、燭台にマッチで灯をつけた。カリンはドアの真向かいの位置にあるイスに座り、ドアをずっと眺めていた。落ち着かない様子で足をぱたぱたさせる。サラは毎日見る光景だ。
部屋の明かりがろうそくの灯だけになった。冬より長いとはいえ、夕焼けの時間は短い。空は薄明るいが太陽は沈んでいる。
「遅い。」
カリンがつぶやいた。サラがなだめるように言う。
「もうすぐ帰ってくるわよ。」
「でも、いつも日が沈む前に帰ってくるもん。」
カリンは立ち上がり、ドアに向かっていった。
「迎えに行く。」
ドアノブに手をかけた。
「丘の上から見えるし、方向はわかるよ。」
「町に行ったらダメ、って言われてるでしょう?」
「でも、絶対いつも日が沈む前に帰ってきたの!」
カリンはドアを押し開けた。サラがカリンの元へ走りより、腕をつかんだ。
カリンの膝がガクンと折れ、地に付いた。そのまま倒れこみそうになるのを、サラがあわてて支えた。
カリンが開けかけたドアがキイと外側に開いた。そこにはイツキが立っていた。サラがイツキを責め立てる。
「どうしてこんなに遅かったんですか?」
イツキは答えるより先に、サラからカリンをひったくるようにした。
「仕事が少し長引いただけだよ。」
サラがドアを閉めた。イツキはカリンを抱きしめたまま玄関から動かない。少しすると、カリンがゆっくりを目を開けた。イツキの顔がほっと緩み、バンダナの上からカリンの頭をなでた。
「お兄ちゃん、遅いよ。」
カリンは弱々しい声だけれど、はっきりと言った。
イツキはサラをにらみ、低い声で言った。
「どうしてカリンに触れたんですか。」
サラはイツキをじっと見つめ返した。イツキは震える声で続ける。
「サラさんがウチに来て、カリンが変わって、俺はそれがすごく嬉しかった。サラさんがいるとカリンの咳がひどかったけど、大丈夫だと思ってた。カリンが何よりサラさんがいて喜んでいたから。でも今はサラさんがいなきゃよかったなんて俺思ってる……。」
俺自身、サラさんがいてくれて嬉しいのに……。
最後はもう声になっていなかった。サラはイツキの頭をそっと手を置いた。イツキが落ち着くまで、じんわりと暖かい頭をゆっくりとなでた。

「ちょっと、三人で丘に行きませんか?」
サラは、台所に買い物袋を置いたイツキと、その横にいるカリンに言った。
「外は気持ち良さそうな風が吹いてますよ。」
サラが開けたドアから入ってきた風は、二人の間をするりと抜けた。イツキとカリンは顔を見合わせ、頷いた。
空から満天の星が三人を迎えた。風が足下の黄土色の砂をさらさらと流す。サラの髪が風で揺れる。
「春になってもこの辺りに花は咲かないんですか?」
広がるのは黄土色の大地ばかり。草も木もこのあたりにはない。
「……花?」
タイミングは微妙にずれたが、イツキとカリン、二人とも聞き返した。
「花は咲かないのね。」
サラは一人で納得している風だった。
三人で丘の上に座る。
「昔話をしてもいい?」
サラの言葉に二人は頷いた。サラがゆっくりと話し始める。
「私は貴方達の言う魔栄時代に生きていました。私達は、魔力で動く魔機を使って暮らしていたわ。夏は涼しく、冬は暖かく。いつでも熱いもの、冷たいものが食べられたのよ。人間のような魔機もあったわ。人間の代わりにすごく難しいことを考えてくれるの。」
徹底的に壊したから、発掘されることはないと思うけどね。と低い声で悲しそうに言った。
「私達は愚かだったの。魔機で豊かになった私達は戦争を始めた。理由はわからないけどきっとくだらないことだと思うわ。」
カリンが首をかしげた。
「せんそう、って?」
「人間と人間が殺しあうこと。私は戦争で家族を亡くしたわ。そういう子供ってどうすると思う?」
「一人で生きていけなかったら誰かに助けてもらう。それもダメだったら……」
イツキが答えた。
「私は一人で生きていけなかった。誰も助けてくれなかった。こんなに大きいのに情けないわね。……私は実験台として生きたの。」
「実験台……なんの?」
「私改造されたの。魔機に改造されたの。兵器としてね……。兵器って言うのは人を殺すための道具ね。」
カリンが泣きそうな顔でサラを見上げた。
「サラさんは人を殺したの……?」
「いっぱい殺したわ。たくさん殺してしまった。私は強かったの。強すぎたの。」
サラは数えながら指を一本づつ折っていった。
「敵軍の研究所を壊して、何人も人が死ぬのを見たわ。」
指が何回も折られた。特に数を数えてるわけではないらしい。
「悲しくなって、自分をこんな風にした研究所を壊したわ。」
サラは、さっきと同じ言葉を強く、悲しく言った。
「私は強かったの。強すぎたの。」
サラのぎゅっと握った手が小刻みに震える。
「私、世界を滅ぼしたの。なんとなくわかったわ。まぶしくて、何も見えなくなった。すぐに景色が帰ってきたけれど、何も聞こえなかった。」
サラの声は震えていた。涙は流れない。流せない。
「魔栄時代は私のせいで終わったのよ。」
サラは、自分を落ち着かせるように大きく息を吸って、吐いた。丘に寝転がり、空を見上げた。カリンも同じように寝転がり、イツキも寝転がった。
「世界を滅ぼしたとき、この丘にいたの。私はこの場所が好きだったわ。色とりどりの花が咲いていてキレイだったの。滅びてしまった世界で、私はここでこうしていたの。今でもはっきり思い出せるわ。たった独りで、静かだった。風が吹いて、丘に咲き乱れる花が揺れたわ。風に揺れて、朽ちていった。鳥が鳴くのも聞こえたけれど、それは遺言だったのかもしれない。目を閉じたら世界がすうっと遠くなっていって、私も、みんなも、この世界からいなくなったんだな、って思った。」
サラの笑い声が聞こえた。三人とも空を見上げていて顔は見えない。
「そしてイツキ君にあったの。カリンちゃんにも会ったの。楽しかった。嬉しかったわ。」
「私も、サラさんに会えて嬉しかったよ。」
カリンが負けじと言った。
「ありがとう。」
サラは起き上がると、カリンを覗き込んだ。「起きて」といわれ、カリンもゆっくりと起き上がる。サラは、起き上がったカリンの手をぎゅっと握った。手から伝わる衝撃に、カリンは身を固くした。
「魔力っていうのは大地の力なの。」
サラがやさしく語りかける。イツキが焦って起き上がった。
「私達は大地の力で生かされていた。その力と相容れないってとても悲しいことじゃない?私が怒らせてしまったのかもしれないけれど、でも絶対受け入れてもらえるはず。」
こわばっていたカリンの表情が緩んだ。
「あったかい。サラさんの手あったかいよ。」
カリンはにっこりと笑った。サラも笑い返す。イツキは驚いて、カリンに聞いた。
「カリン、アレルギーは……?」
カリンはイツキを見て首をかしげて笑った。
「なんか大丈夫みたい。」
サラはカリンの手を離すと、今度はイツキの方を向いた。
「今度はイツキ君の番。ねぇ、イツキ君。今日カリンちゃんは前に進んだの。」
「前に?」
「私も進んだわ。イツキ君も進んでみない?」
イツキとサラの目が合う。サラの大きな赤い瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「どういう意味ですか?」
「ごめんね。先に謝っておくわ。悪いことしか見えないかもしれないけれど、でも絶対いいことだと思うの。」
サラは言いながら立ち上がった。イツキにも立つよう促す。
「なんなんですか?」
「こういうことです。」
サラは右手で握りこぶしを作り、それを左手にぱちんと打ちつけた。左手でしっかりとイツキの右肩を抑える。ぐっと右ひじを引くと、イツキの腹部めがけて思い切り打ち込んだ。
空気がすっと抜け、吐き気がこみ上げてくる。
「お兄ちゃんっ!」
カリンが飛び起き、膝を付いたイツキの背中をなでた。腹の辺りを鈍い痛みが走る。サラが、イツキの口から出た小さいカプセルのようなものを拾う。カリンはサラをきっと睨んだ。サラはしゃがみ、イツキと視線を合わせると、拾ったカプセルを見せた。
「コレがイツキ君の特異体質の正体です。これは魔力を吸収して溜めるものなの。戦争中は魔力がとても大切だったからこれで溜めていたの。イツキ君は誤って飲み込んでしまったのね。」
サラは、カプセルを指先でつぶしてから飲み込んだ。ピンク色だった髪の色が、真っ赤に、血のように真っ赤になる。
「さっきも言ったけど、貴方達が魔力と呼んでいるものは、大地の力なのよ。木も、鳥も、動物も、花も、私達も、みんなこの力で生かされていた。」
サラが指先で地面に触れると、そこから小さな芽が生えた。
「戦争で使いすぎちゃったのかしら。新しい世界では花が咲かない………」
もう一回触れると茎が伸び、つぼみになった。
「私、二人と一緒に暮らせてよかったわ。」
二人の顔を見て、サラはにっこりと笑った。カリンが困った表情で返す。
「よかったって何……?」
サラは、カリンにかまわず続けた。
「そして、ここで最期を迎えられることが嬉しいわ。」
イツキの頭をくしゃくしゃとなでる。イツキがちらりとカリンのほうを見たので、サラはカリンの頭をバンダナの上からなでた。
「髪がピンク色だったでしょう。私は魔力で動いてるもので、魔力が減ってしまったから、もうすぐ止まるのよ。」
「でも今は赤いよ。」
カリンが自分の頭をなでる手をきゅっと握った。サラはその手を両手で包み込んだ。
「この力は別のことに使いたいの。」
サラはゆっくりとカリンの手を離すと立ち上がった。

イツキとカリンの周りをゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように歩く。サラの足跡から青葉が生まれ、茎が伸び、葉が茂り、つぼみがついた。
サラがふもとから「キレイでしょう?」と声をかけたときには、丘はつぼみで埋め尽くされていた。サラが丘に駆け上ってくる。その緩やかなカーブを描く豊かな髪は、カリンに負けず劣らず真っ白だった。
「あと少しだわ。」
サラは二人ににっこりと笑いかけ、イツキの目の前に座った。カリンはイツキの後ろにいたが、サラの隣に改めて座った。
「イツキ君、ちゃんと前に進んでね?」
カリンがサラの白い髪をくい、と引っ張った。
「サラさん、どこかに行っちゃうの?」
「私は大地に還るの。」
サラが、星空のようにきらきら輝いているようだった。
「ねぇ、イツキ君。」
サラがイツキを見つめる。サラの足下からきらきらと輝くものが風に流れて舞った。
「私がお母さんしなくても大丈夫よね?」
にっこりと笑った笑顔がきらきらと輝き、風化した。
サラは、きらきらと輝きながら丘じゅうに広がった。

空がうっすらと明るくなっている。カリンは、目の前のつぼみにそっと触れた。つぼみがゆっくりと開き、橙色の花が咲いた。今つけているバンダナの色。サラとであったあの日、イツキからもらったバンダナの色。夕日の色。昇ってくる朝日の色。
イツキは丘をゆっくりと歩いていた。ぐるぐると、うつろな目で。

――――どこにいるの?

丘のふもと、サラがいた地面の裂け目のすぐ横。そこに咲いていたつぼみにイツキはそっと触れた。真っ赤なつぼみ。ゆっくりと花が咲いた。血のような赤色。魔霧の色。サラさんの髪の色、瞳の色。生きる色。

――――みつけた。

「おにいちゃーん」
カリンが自分を呼ぶ声が聞こえる。丘の上まで走っていく。
走るたびに足下の花が開き、揺れた。
丘の上から見ると一面花が咲いている。
風がそよぎ、花がゆれた。

イツキは、前に進めたような気がした。

私の一つ上の先輩が卒業するときに書いたもの。
特に大好きなあの先輩に向けて。
背景写真は『m-style』よりお借りしました。