教室に入ると、自分の席に花瓶が置いてあるのが目に入った。花瓶をあるべき場所、黒板横の机の上に戻す。

 短い毛先が首筋をなぞり、気持ちが悪かった。

 教室に人は少ない。私のほかに三人。その三人がこちらに近づいてくる。

「佐伯さん、おはよう。ずいぶんさっぱりさせたのね。」

 水谷ルカは、セーターの長い袖から少し出た指で茶色い髪を絡めとった。口は笑っているが目は笑っていない。

「おかげさまで。」

 同じような表情で冷たく返す。

「昨日、私痛かったんだからね。」

 水谷は頬をさすりながら、今度は口も笑っていない。覗く白い歯が欠けていないのだからいいと思う。

「私、読書するから。」

 三人を無視するように鞄から文庫本を取り出し、電車を降りるときにしおりを挟んだページを開く。

「邪魔しないでね。」

 一瞥し、本に目を落とすと三人は教室の隅の方へ戻って行ったようだった。

 いつもあの三人は黒板側窓際……さっき花瓶を置いた場所に溜まっている。

「ルカさん、ルカさん。佐伯あきら、すっげームカツクんすけど。」

 この甘ったるい声で言葉遣いが悪いのは高島沙織。

「いいじゃん、ああいうのも。春日井とはまた違って。」

 水谷の冷たい声が背中をなぞり、気持ちが悪かった。

 このクラスの人間はスカートの丈で大体分けられる。

 水谷ルカ・高島沙織・仁科美緒の三人。階段を上るときに鞄を添える必要のあるスカート丈。別の言い方をすると、水谷ルカと二人の従者。

 このクラスの大多数を占める膝上丈。

 そして、校則通りの膝下丈。それが私と春日井千佳子。

 すぐ隣の春日井千佳子の席には、私のと同じように花瓶が置かれている。

 教室に徐々に人が増えてきた。そろそろ教師が来る頃だ。三人は春日井の机の上に置いてあった花瓶を教室後ろのロッカーの上に戻した。春日井はまだ登校してこない。昨日も学校に来なかった。

 教師は俯き気味に教室に入ってきた。重苦しい調子で話しだす。

 春日井千佳子が一昨日から家に帰っていないそうだ。

 教師ほどクラスは深刻じゃなかった。

 水谷ルカの『お気に入り』がいなくなった。でもその代わりは自分ではない。クラスは無関心。

 『代わり』とは、私。

×   ×   ×

 思っていたほど絡まれはしなかった。昨日殴ったのが効いているのかもしれない。

 昼休みは、弁当を持って中庭に行くことにした。三人は窓際黒板側、水谷の席に椅子を集め弁当を囲んでいる。

 中庭に私のほか人はいなかった。この時期は寒いからだろう。花壇のふちに腰掛け、膝の上に弁当を広げた。箸で玉子焼きを刺し、口へ運ぶ。

 目の前にある並木道の十字路を横に人影が歩いた。それは驚くべき人物で、玉子焼きを飲み込んだ私の喉は自然にその名を呼んだ。

「春日井……」

「え?」

 右を向いていた春日井がこちらを向いた。長いストレートの髪。黒縁で厚いレンズの大きな眼鏡。そしてその眼鏡を隠すほどに長い前髪。

「あ、えっと、佐伯さん……?」

 相変わらずの自信なさげな小さな声で私の名前を言う。直角に曲がり、こちらへ歩いてきた。

「行方不明って聞いたのに。今日は午後から学校?」

「あ、えっと、そうじゃなくって……」

 今度は唐揚げに箸を刺す。それを口に運ぶとき。

「スカートめくれてるよ。」

 春日井のスカートを箸の先の唐揚げで指す。裾がめくれあがって膝が覗いている。空いている左手を春日井のスカートに伸ばした。

「え? ……きゃっ」

 春日井は私が伸ばした手から逃げるように後ろへ一歩退いた。

 手応えなく手は空を進み、勢いづいて私は花壇から転げ落ちた。弁当がひっくり返り、箸が刺さったままの唐揚げもその横に落ちた。

「あ、えっと、ごめんなさい。私、拾うの手伝う……」

 春日井は弁当の横にしゃがみこんだ。私の手を踏んでいる。踏まれた覚えはない。痛くもない、というか……足がない。確かに見えているけれどそれが在るという感覚がない。春日井がつまみ上げた唐揚げは宙に浮くことなく指だけが上っていった。

「春日井、私の手踏んでる。」

「ひゃ、ごめんなさい……」

 春日井は飛び上がりしりもちをついた。脚が透けて、向こう側の弁当箱が見える。

「なに、これ。どういうこと……」

「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 目を潤ませ「ごめんなさい」の連呼。わけがわからない、うるさい。

 弁当を拾い集める。春日井は俯いて座り込んでいた。長い前髪を耳に掛け、でも下を向いているからすぐに落ちる。聞こえないほどの小さい声でぽつりと言った。

「私ね、死んだはずなんだ……」

「……はぁ。」

 呆れたような、ため息のような。そんな声しか出なかった。

×   ×   ×

 知ってるかな、私、学校から家に帰るのに海沿いの大きな道路を通るの。最初は浜辺。今の時期は海水浴目当ての人がいないからにごった波が打ち寄せるだけ。浜辺に段々少しずつ緑が増えてきて、そのうち大きな崖にぶつかる。知ってるよね、あの大きな崖。ごつごつとした岩がにゅっと海に突き出してる。海に向かうほど緑が少なくなって先っぽはただの岩。そこで道路を横切ると家に着くんだけど、私その崖が好きなんだ。冷たい潮風と飛び散る水しぶき、鳥の鳴く声……嫌なことがあったらいつも崖に行く。先に立って海をぼーっと眺めるの。

 一昨日も。

 薄暗い空。雨がざあざあ降りつけ、風がびゅうびゅう吹いてた。……なんか、呼ばれた気がしたの。

×   ×   ×

「要するに一昨日学校の帰り、崖に行って、夜になった頃に飛び降りた、と。」

「えっと、そんな風にも言えちゃうけど……」

「自殺ねぇ……私には理解できない。」

 花壇の縁に並んで腰掛け、私は購買のパンをかじる。春日井が私の顔をやや下から覗き込んで言った。

「ねぇ、今度は私が聞いてもいい?」

「なに?」

 春日井は私の頭を指差した。

「どうして髪切ったの? あんなに綺麗だったのに。」

 私は昨日まで腰まである長い髪を高く結っていた。高校入学からずっと伸ばしていた艶やかにまっすぐ伸びた黒髪は、自分の中で一番好きな部分だった。髪を櫛で撫で、結い上げる時間は一番好きな時間だった。

「あんたの身代わり。」

 低い声で返す。

「え、あの、ごめんなさい……」

 わけもわからず気迫に負けただけの謝罪の言葉。

「さっきもだけど、そんな風に謝られるのうざったい。」

「えっと、ごめんなさい……。あ……」

 春日井は口を押さえるとうなだれた。ため息が出てくる。

「昨日、水谷に結っていた根元からばっさり切られた。だからその日のうちに美容院に行って切りそろえてもらった。それだけだよ。」

「水谷さん……」

 春日井の肩が小刻みに揺れる。

「私の所為だ……」

 声は震えていた。意地悪言ったことを少し後悔した。小刻みに揺れる肩を優しく叩く。

「水谷の所為だよ。」

×   ×   ×

 昼休みが終わった。教室へ戻る。何故か春日井と一緒に。

「あんた、死んだんだから好きにしてていいんじゃないの?」

「うん……。でも、どうしたらいいのかわかんないの……私のこと見えるの佐伯さんしかいないみたいだし……」

 途中の廊下にいる人間は私を変な目で見る。一人なのに何かに話しかけているように見えるから。

「私の席はあるだろうし、とりあえず授業受けようかな……きゃっ。」

 春日井は前から来る人にぶつかりそうになり身をよじらせた。その人は春日井を通り抜けて行ったけれど。

「……びっくりした……」

「ちゃんと前見て歩いてる?」

 ゆっくりと立ち上がる春日井に言った。

 後ろのドアを空け、教室に入る。相変わらず窓際黒板側にいる三人が私を見た。

 そのうちの一人、高島が驚いたような顔をした。

 自分の席に座る。その隣に春日井も座った。

「ルカさん、春日井学校来たんすね。」

 甘ったるい声がこっちまで聞こえてくる。

「はぁ? 何言ってんの、沙織。」

 水谷の、人を小バカにしているような応答が聞こえる。

「高島さん、私のこと見えるんだ……」

 春日井は、単純に嬉しそうともなんともいえない表情を浮かべていた。